川沿いに公園、その背後に高層マンション、オフィスビルなどが建ち並ぶポートサイド地区。 昭和61年にスタート、平成に入ってから本格的に再開発が進んだ、ヨコハマポートサイド地区は横浜駅東口から歩いて7分ほど。� 方針2 歴史の継承 歴史的シンボルとしての赤レンガ倉庫への見通し景観を守ります。 歴史性を意識し、高さを抑えたまとまりのある街並み景観をつくります。 方針3 "島"としての個性の演出 歴史やみなとらしさを活かしたシークエンス景観をつくります。 都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして バイクを知り尽くした研究所? 近代的なビル群の立ち並ぶみなとみらい21地区の中心に、今は静かに都市の発展を見つめる日本丸。そのおだやかな様子からは想像できない、様々な歴史を背負っています。その歴史を少しだけのぞいてみ … 「みなとみらい21」地区は「中央地区」「新港地区」「横浜駅東口地区」という3つの地区の総称です。全体コンセプトとして、「24時間活動する国際文化都市」「21世紀の情報都市」「水と緑と歴史に囲まれた人間環境都市」として、まちづくりが進められてきました。 もともと海だったみなとみらい 横浜は、埋立を繰り返して拡張してきた歴史を持っている。 結論から言えば、現在のみなとみらいは開国前は海であった。 横浜は埋立によって発展してきた 「途次大志の備忘録」の執筆者で昔の海岸線の位置を歩いてみたい途次大志(toji-taishi)です。, 仕事上のお客様と食事をする際にはちょっとした「小ネタ」を持ち合わせていると助かります。, 私も海外の人や国内からのお客様をちょっとした観光にお連れする際には現地の歴史などを事前に下調べをします。, 横浜みなとみらいで働く人ならオフィス近くのちょっとした情報を知っておくのといざという時に役立ちでしょう。, 話題提供に使える横浜みなとみらいの歴史にまつわる豆知識とざっくりとした歴史の流れについてご紹介します。, せっかく縁があって横浜みなとみらいに訪れたお客様に気の利いた話題提供ができれば仕事がうまく進みそうです。, 無口であまり話してくれないお客様やもともと歴史好きなお客様もいらっしゃるでしょう。, まずは横浜みなとみらい、汽車道、ドックヤードガーデンにまつわる豆知識を3つご案内します。, もともと横浜で育った人なら知っている人も多いでしょうが、横浜以外で育った人ならご存知でない人もおられるのではないでしょうか。, 私も横浜在住20年以上ですが育った場所が横浜以外なので横浜市の「六大事業」について知りませんでした。, ランドマークタワーがそびえ立ち、赤レンガがライトアップされ、横浜駅東口からもアクセスしやすいみなとみらいエリアは1965年に横浜市長を務めていた飛鳥田(あすかた)氏が発表した「六大事業」に端を発します。, ビジネスマンとしては「六大事業」とともに横浜市長だった飛鳥田氏の名前を知っておいて何かと損はなさそうです。, 横浜市の「六大事業」ではベイブリッジの建設、地下鉄の建設も含まれ、その一つとして「都心部強化」の一環としてみなとみらいが誕生しました。, 横浜開港以前は海だった場所に今のみなとみらいの形に埋め立てられようになるまでには横浜博覧会が開催された1989年まで待たなければなりません。, 現在のみなとみらいの姿を知ってしまうと信じにくいことですが、日本の長い歴史を考えるとわずか平成元年に現れた土地に今では多くの人が働き、観光に訪れているということなのです。, もともと歴史好きのお客様がいらっしゃれば日本大通り駅の近くにある「横浜都市発展記念館」にご案内すると良いでしょう。, 1989年に現在の姿に整備されたみなとみらいを利用して横浜博覧会が開催されました。, 横浜博覧会の開催中、汽車道を通り山下公園駅と日本丸駅を結ぶ横浜博覧会臨海線という鉄道が走っていたことをご存知でしょうか。, 「汐風號」「浜風號」と名付けられた鉄道が山下公園と日本丸の間を駆け抜けていたのです。, 横浜博覧会は「宇宙と子ども」をテーマに1989年3月25日から10月1日の191日間で開催され1,333万人が訪れました。, 年間3,000万人以上の現在の横浜の観光客数と考え合わせると来場者1,333万人は少ないように感じてしまいますが、逆にみなとみらいの誕生が現在の観光地としての契機になったとも考えられそうです。, 現在もランドマークタワーの足元にあるドックヤードガーデンで見ることができる「第2ドック」は1859年の横浜開港以降に建設されました。, 横浜開港以降の1897年に完成した「第2ドック」は1923年の関東大震災で被災し、1945年の横浜大空襲では大きな被害は受けなかったものの戦後は米軍に一時接収されるという運命を経てもなお昔の姿を今に残してくれています。, その後、ドックヤードガーデンとしての利用のために再度掘り起こされて、現在私たちが目にすることができるようになりました。, 仕事や観光で訪れたお客様をおもてなしする際には横浜の歴史くらいは知っておきたいと思いながらも、整理されて頭に入っていないとなかなか話題としてはすぐには使えないものです。, みなとみらいの歴史をざっくりと知っておくには横浜の「4つの出来事」の年号とそれらで区分けされる「5つの時代区分」を頭の中の整理棚としておけば、いざという時でも話題提供の隠し道具として活躍してくます。, 横浜開港前の海岸線沿いから時代を経てどんな風に埋め立てられていったのかを知ることこそ、みなとみらいの歴史を知ることのように感じます。, 「みなとみらい大通り」と「いちょう通り」が交差する「いちょう通り西」の交差点をJR根岸線の線路方面に向かった高速道路の高架下に観光案内板が立てられています。, 横浜開港以前の状態に近いと考えられる横浜開港当初の海岸線の位置とともに時代ごとの埋立ての様子を地図と説明文から理解できます。, 日本語の説明文とともに英語表記の説明がなされているので、ランチの時間を利用して海外の人を散歩に連れて行っても喜ばれるでしょう。, 私たち夫婦も散歩途中に、この案内板に描かれている昔の海岸線の位置を実際の位置と照らし合わせながら「あ!ここからが昔は海だったんだ!」と楽しんでいます。, 1859年の横浜開港以降にみなとみらいの陸側から少しずつ埋め立てられていきました。, 1888年に創立した横浜船渠会社がドックヤードガーデンで今も見ることができる「第2ドック」や日本丸が停泊している「第1ドック」を建設しました。, 桜木町駅からの動く歩道に利用し、幾度となく日本丸と「第1ドック」を眺めておきながら「船渠」という文字の読み方と横浜船渠会社の存在を知らなかった自分に恥ずかしく感じます。, 横浜船渠会社が創立して約10年後の1897年に「第2ドック」が完成し、さらに2年後の1899年に「第1ドック」が完成しました。, 動く歩道から見える日本丸が停泊する「第1ドック」のすぐ先が海だったということです。, 栄えている関内地区から見れば現在のみなとみらいは桜木町駅の「駅裏」という感覚の場所だったのです。, 日本郵船などの支援を受けますが1929年の世界恐慌による不況により1935年に横浜船渠会社は三菱重工業と合併しました。, 歴史に「もしも」はありませんが、関東大震災と世界恐慌がなければ三菱重工業との合併もなかったのかもしれません。, 現在のみなとみらいの姿は三菱グループの三菱地所の開発によるものですが、もしかしたら今とは異なるみなとみらいの姿になっていたのかもしれません。, ちなみに「第2ドック」で使用されている石材は熱海の東に位置する神奈川県の真鶴半島の「小松石」が使われているそうです。, 地質学や石材に関心のあるお客様がいらっしゃれば、実際に手で触れることができる「第2ドック」の石材を喜んでもらえるかもしれません。, すでに効果的な空襲に長けていた米軍は山手地区と同様に占領後の活用に備え港湾設備を有する地域を避けて精密な攻撃を行いました。, ドックが連なるみなとみらいは大きな被害を受けなかったものの戦後しばらくの間は港湾設備の9割は進駐軍に接収されることになります。, みなとみらいが返還された後、1965年に横浜市の「六大事業」が発表され横浜の復興とも思える開発がやっと動き始めました。, 1955年以降から続く貨物や旅客を船で運ぶ需要の高まりを受けてみなとみらいを手放したくない三菱重工と新しい開発を行いたい横浜市との間の調整は簡単には進まなかったようです。, しかし経済も移ろいゆくもので1980年代に造船産業の勢いに陰りが見え始め三菱重工のみなとみらいの撤退と三菱地所による跡地開発という方向性が見え始めました。, 「みなとみらい」という名称は1981年の「都心臨海部総合整備基本計画」の愛称募集から呼ばれるようになりました。, 1965年の「六大事業」発表から18年後の1983年に「みなとみらい21事業」の起工式が行われ現在の姿へ向かうことになったのです。, この1989年という年は平成元年というだけでなく、1859年の横浜開港から130年目に当たり、さらに横浜市の市政100周年の記念すべき年に現在の姿の原型となるみなとみらいが誕生したのです。, 横浜博覧会後の2年後の1991年に「ヨットの帆」の特徴的な形の「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が開業し、1993年に当時日本一高い超高層ビルとされた「ランドマークタワー」が開業しました。, 新港では2002年に「赤レンガパーク」が整備され、グランモールに2013年に「MARK ISヨコハマ」横浜駅東口も開発が進みました。, 横浜博覧会以降のみなとみらいの発展により関内周辺と横浜駅周辺を海側で結ぶ「かすがい」の形をした横浜の都市機能が強化されたのです。, 桜木町駅からの動く歩道から見える日本丸と「第1ドック」の先に海が広がっていたなんて今では信じにくいみなとみらいの街並みが広がっています。, ドックヤードガーデンの「第2ドッグ」では当時の真鶴半島で採掘された「小松石」に触れることができます。, 当たり前のように目の前に広がる景色もその歴史を知るとさらに愛着が湧いてくるものです。, 「みなとみらいの誕生」 「バイクラボラトリー」, 増改築からメンテナンスまで、住まいのことならなんでもおまかせ「システムショップはぎわら 金沢文庫店」, フカヒレ姿煮がのった豪華メニューも1人2400円で食べ放題! みなとみらいの象徴 ランドマークタワー. 5/19〜6/29 みなとみらい21新港地区は主に横浜赤レンガ倉庫を中心とした地区である。みなとみらい駅周辺のみなとみらい21中央地区と、中華街や山下公園のある関内・山下地区を結ぶ結節点としての役割も担っている。(図1) (2)歴史的背景 みなとみらいは、神奈川県横浜市西区の町名。現行行政地名はみなとみらい一丁目から六丁目。住居表示実施済み区域。郵便番号は220-0012 。 横浜の空襲と戦災〈3〉公式記録編 (1975年), https://tojitaishi.com/yokohama-population/, https://tojitaishi.com/yokohama-machizukuri/, https://tojitaishi.com/yokohama-hakubutsukan/.
横浜赤レンガ倉庫の歴史をご紹介します。明治末期から大正初期に建設されたレンガ造りの歴史的建造物。現在は文化施設、商業施設として再生され、観光スポットとして人気を集めています。様々なイベントが楽しめて、横浜観光やデートにもピッタリな横浜赤レンガ倉庫。 せっかく縁があって横浜みなとみらいに訪れたお客様に気の利いた話題提供ができれば仕事がうまく進みそうです。 無口であまり話してくれないお客様やもともと歴史好きなお客様もいらっしゃるでしょう。 まずは横浜みなとみらい、汽車道、ドックヤードガーデンにまつわる豆知識を3つご案内します。
8/2〜9/5 ビジネス、商業の中心地だった横浜駅、駅を挟んでみなとみらい、野毛と2つの表情のある街を持つ桜木町駅、開発目覚しいみなとみらい駅、ここでは、この3駅周辺を見ていきましょう。 「みなとみらい21」地区は「中央地区」「新港地区」「横浜駅東口地区」という3つの地区の総称です。全体コンセプトとして、「24時間活動する国際文化都市」「21世紀の情報都市」「水と緑と歴史に囲まれた人間環境都市」として、まちづくりが進められてきました。 10/19〜11/21 12/10〜12/20, 日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4, 近代的なビル群の立ち並ぶみなとみらい21地区の中心に、今は静かに都市の発展を見つめる日本丸。そのおだやかな様子からは想像できない、様々な歴史を背負っています。その歴史を少しだけのぞいてみませんか。, 昭和のはじめ、船員を養成するための学校「東京高等商船学校」と「神戸高等商船学校」は専属の練習船「大成丸(2423トン)」と「進徳丸(2792トン)」を所有していました。しかし、函館をはじめ11校の公立商船学校の専属の練習船は総トン数1000トン以下で、海難事故が相次ぎ、民間船会社に依頼して航海実習をしている状況でした。どうにか共通の大型練習船が造れないかという強い要望があり、「日本丸」と「海王丸」の姉妹船が建造されることになりました。 1928(昭和3)年、文部省の提出した予算は1隻あたり91万円でした。, 日本丸のエンジンは、焼玉エンジンを作っていた池貝鉄工所に開発を依頼しました。池貝鉄工所の川口工場では何度も何度も試作品が作られました。やっと完成したエンジンは、日本初の舶用大型ディーゼルエンジンとなり、日本丸の中で54年動きつづけ、世界一の稼動年数記録を打ち立てました。, 館山、清水、神戸などの沿岸を航海していた帆船日本丸は、1930(昭和5)年10月4日いよいよ第1次遠洋航海に旅立ちました。南洋群島(現ミクロネシア)のポナペ島への航海でした。その後も太平洋を主体とした訓練航海を行いました。, 1941(昭和16)年12月8日太平洋戦争が勃発すると、日本丸は外洋訓練を中止。横浜浅野ドックに入り、帆などの帆装艤装(はんそうぎそう)がはずされ、白い船体はねずみ色に塗り替えられました。瀬戸内海、大阪湾を中心に緊急物資(石炭など)の輸送のかたわら、訓練を続行していました。多くの船が海に沈んでいく中、幸いにして日本丸は戦渦に見舞われることなく終戦を迎えました。戦後、中国、東南アジア、南方諸島には600万〜700万の日本人が残されていました。1946(昭和21)年12月、日本丸は上海を皮切りに釜山、シンガポール、台湾などをまわり2万人以上の引揚者を輸送しました。1951(昭和26)年サンフランシスコ平和条約が調印されると、帆船日本丸は外地での遺骨収集、慰霊碑の建立などに献身的につくしました。乗組員、実習生たちは戦争の傷跡が残る熱帯のジャングル、洞窟にわけ入り、作業を行いました。, 敗戦国の練習帆船は、次々にアメリカなど連合国へ所有権が移っていき、日本丸や海王丸もいつかは駐留軍の手にといううわさが流れていました。1950(昭和25)年朝鮮戦争が勃発しました。両帆船は、特殊任務を命ぜられ、釜山から米軍人、韓国避難民を約3,000人輸送しました。そのような中、航海訓練所は各方面へ練習帆船が残せるよう働きかけました。時代遅れと言われながらも帆船の現代的意義を説き続け、ついに帆船の復活が現実的のものになったのです。以前帆装を撤去した浅野ドックには雑草が生い茂り、その中から空襲の中残されていた鉄製のヤードが見つかりました。木製のヤード・マストは戦後の燃料不足で燃やされていました。当時和歌山の紀州材が東京木場の木材屋に届くまでに半年以上かかっていました。その間実習生たちも帆船日本丸を復活させるため工事にたずさわっていました。そしてようやく1952(昭和27)年6月、日本丸は帆装復帰その美しい姿を再び現したのです。, 1953(昭和28)年6月、日本丸は戦後初めてで12年ぶりの遠洋航海、ハワイ島ヒロへと向かいました。折しもアメリカ独立記念日と重なり、実習生たちは街頭パレードに参加しました。, 1860(万延元)年、徳川幕府が日米修好通商条約の使節として新見豊前守一行80名をワシントンに派遣した年から百年目に当ることから、日米親善使節の役目を日本丸実習生が果たしました。東映衣装部から江戸時代の武士の衣装を借りて、仮装行列などを行いました。, 昭和59年、帆船日本丸は、54年5か月16日に渡って行ってきた、船員養成の任務を「“新”日本丸」に引き継ぎました。, 遠洋航海、カナダ百年祭参加(神戸−ビクトリア−ニューウェストミンスター−ウェストバンクーバー−ヒロ−東京), 遠洋航海、オーストラリア・キャプテンクック二百年祭参加(東京−スバ−シドニー−ヌーメア−東京), 遠洋航海、ブリティッシュコロンビア州連邦加盟百年祭参加(神戸−ビクトリア−バンクーバー−ヒロ−東京).