明治期には横浜に住み、大正11年から大正12年(1922年から1923年)頃、満78~79歳で没した。, 多摩・日野の郷土史家谷春雄の発表した平助の生存説[14]は上記のような内容である。, 藤堂平助が幕末史上に登場した期間は5年程とごくわずかであるにも関わらず、新選組隊士として即座に名前が挙がるほどに知られた存在だが、やはりその生涯があまりに短すぎたためか平助には謎が多く、人物や挙動に関する史料や口碑はごくわずかしか残されていない。, 「 ……藤堂和泉守の浪人にて壬生組に入候由。実は和泉守妾腹の末子とやらの噂之者に御座候由。至而美男士之由御座候。……当年十七歳・・ 」, 『京師騒動見聞雑記録』は西国を代表する雄藩・薩摩の島津家の家士が当時の京の情勢を藩に伝えるために記録した報告書である。その中に奇しくも平助に関する記述が残されている。言うまでもないが、幕末の動乱期において本国への公的な通信で一介の浪士にすぎない平助の出自や容貌・性格等をわざわざ報告しているのはきわめて異例といえる。, 京でよほど評判になっていたのか、この薩摩藩士某が個人的に思うところがあったのか経緯は不明だが、とにかく写真はおろか肖像画も残っておらず、係累や子孫さえも判然としない平助の姿形を今日に伝える非常に貴重な史料であることは確かである。, また、実際の平助の年齢は数え年で21歳であったが「17歳」と記述されている。実年齢よりひどく若くみえる幼い顔立ちの美男であったようである。, 江戸幕末期の成人男性の平均身長は155〜157cmほど[17]といわれているので、「小兵」と評された平助の身長はおよそ153cm前後であったと推測される。, 愛刀の上総介兼重は二尺四寸五分(およそ73cm)もある長寸の打刀で、本来であれば身長180cm前後の男性に最適な長さの刀である。驚くべきことに平助は自分の身長の半分ほどもある長さの刀を手足のように自在に振るい、死線をくぐり抜けていたことになる。, 自称新選組隊士・結城無二三の子である結城禮一郎の著作『旧幕新撰組の結城無二三』が出典だが、本書は事実誤認や史実と異なる情報がしばしば指摘されており、結城の先入観あるいは想像である可能性も否定できない。, また、子母澤寛著の『新選組始末記』にも「江戸っ子で品行は不良だったが人物がしっかりしていた」との記載があるが、証言者や出典元は不明である。, 石坂周造は、浪士隊上洛の際の組頭を務めた主要幹部である。300名を超える浪士隊の中であえて土方と平助を名指しするからには、よほど彼らが反抗的で目立っていたということなのか、いずれにせよ石坂は二人を「一筋縄ではいかない浪士」であったと述懐している[注 17]。, 「 ……此以前より度々の鎮静之砌(みぎり)もいつも先駆けいたし候者之由。即右池田屋に真一番に斬込候処、深手を負ひ、半死半生にて、しかしいまだ存命の由御座候。兼て魁先生と被呼(よばれし)候程之者の由」, 平助は市中巡察の際に隊の先頭に立つ当番(後の「死番」制度)を自ら進んで引き受け、また戦闘の際には常に先陣を切ったことから、魁先生という異名をとった。, 新選組隊士とりわけ幹部メンバーには、多かれ少なかれ必ず女性のエピソードが伝えられているが、美男として知られていたにも関わらず平助にはそれが全くといっていいほどに残されていない。, あえて挙げるとするならば、祇園一の美貌を誇った勤皇芸者・中西君尾の以下の証言だろう。, 元治元年11月頃(1864年12月頃)、京都四條南座でのこと。芝居の上演中に酒に酔った新選組隊士らが乱入し、美しい芸者(君尾)を客の男性から奪い取ろうとした。
In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript. 待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日(12月14日)未明に戦死した[注 14]。, 検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる[9]。 近藤勇の四天王とまで言われていた藤堂平助は、じつは津藩主のご落胤説のある人物です。, 武州、多摩にあった天然理心流道場試衛館に、北辰一刀流の藤堂平助が出入りするようになるのは、文久二年のころ。, その翌年、近藤勇・土方歳三・沖田総司らと将軍警護のための浪士募集に参加、上洛をはたしました。, 壬生に屯所を構える壬生浪士組の一員となり、最年少で幹部となった藤堂平助は当時、20歳。, 勇猛果敢な性格で、戦闘の時には誰よりも先に敵陣に突入したことから、『魁(さきがけ)先生』との異名を取りました。, 「藤堂泉守のご落胤との噂でいたって美男子」(京師騒動見分雑記録)といわれ、小柄で立ち姿は「白梅のよう」だったそうです。, 「小兵だが剣術はなかなかの腕前で学問もできた」(御陵衛士・阿部十郎『史談会速記録』), 一方で、若いこともありやんちゃが過ぎるのか、試衛館時代から品行が悪いと近藤によく注意をされていたといいます。, 上洛途中、同じ浪士組であった石坂周造という人物が当時を振り返って「隊中にも、土方歳三、藤堂平助という悪者のいることを・・・」と証言したといいます。悪者と言われるような事として、何をしたのかは謎です。, 思想的には北辰一刀流の一派に多い熱心な「尊王攘夷」「勤王」派であり、浪士組から壬生浪士組に至るまでは、「将軍の指揮のもと行う尊王攘夷」を目指し、近藤勇らも志を同じくする同志でありました。, 藤堂平助が魁先生のプライドをもって挑んだ1864年の池田屋事件では、新撰組の名は上がったものの、当初目指していた「尊王攘夷」とはかけ離れてしまう結果となってしまいました。, 以降、新撰組が行うのは佐幕派の急先鋒部隊として、「尊王攘夷派の取り締まり」であり、歳若い藤堂はそんな新撰組に失望したのかもしれません。, その後、藤堂平助の北辰一刀流の師である伊藤甲子太郎の入隊、同じ北辰一刀流で学び試衛館の食客だった山南敬助の切腹など、藤堂平助の心を揺らす出来事が相次ぎ、新撰組に対しての不信感を明確にしていきます。, 永倉新八の「新撰組顛末記」によると、近藤が幕府の手先となり当初の志であった「尊王攘夷」を行わないことに藤堂は不満を持ち、近藤を殺し伊東を局長として新撰組を「勤王」の組織にしたいと伝えたといいます。, 近藤勇に対して、辛辣な見方を残している永倉新八の記述ですので、多少話が大きくなっているかもしれませんが、藤堂の不満はその通りだったのでしょう。, やんちゃで、まっすぐで、勇猛果敢。そんな性格であった藤堂平助は、共に大志を抱き上洛した近藤が佐幕派の深みに流されていくようすを、許せなかったのかもしれません。, 一方、表向きは円満な分隊という体裁を取っていたものの、近藤・土方は懐刀の斎藤一を間者として御陵衛士に同行させています。, そして、近藤勇の暗殺計画があるとして、反対に新撰組は伊東を暗殺、伊東の遺体におびき出された藤堂平助も若い命を京の寒空の下に散らしました。, 検死の記録によると、鼻から口にかけて長さ21cm、傷の深さは6cmにも及んでいたといいます。, 魁先生のプライドをかけ、このときも真っ先に抜刀したとも、反撃の隙も無く切りかかられ絶命したとも言われています。, また、永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、近藤は「藤堂だけでもできるなら助けたい」と永倉に伝えたといいます。しかし、何も知らされていない新撰組隊士が斬りかかってしまったということです。, しかし、自分ばかりが近藤の情けで助かっても、一本気な性格のな藤堂平助であるならば、それを良しとしなかったのではないでしょうか。, 七条油小路事件と呼ばれるこの粛清劇は、仇討の連鎖を生み、その後の近藤を襲うことになりました。, いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。 なお、各試合の勝敗は記されていない[3]。, 元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件では、最初に斬り込んだ4名のうちの一人で、一階の庭を持ち場とし、逃亡しようと降りて来る浪士達相手に奮戦した結果、佩刀の上総介兼重はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。, また、戦闘中に室内があまりに暑かったため、汗を拭おうと鉢金を取ろうとしたところを潜んでいた浪士に斬りつけられ、額(眉間から顔側面とも)を割られ昏倒。一時は生死をさまよう危篤状態に陥った。, 事件後、近藤、土方に次ぐ額の計二十両(金十両および新刀購入料として別段金十両)もの褒賞金を江戸幕府から下賜されている[注 9]。, 元治元年11月(1864年12月)、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、平助はこれに先立って志願者を募るため土方、斎藤らと共に江戸に向かい、新たに加盟した伊東甲子太郎の一派などを引き連れ翌年の五月頃に京都へ戻った[4][5][注 10]。, 慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。これより当初の上洛の動機であった尊王攘夷の志士への道をようやく歩み出すことになる。, なお、御陵衛士側に間者として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤は激怒し、御陵衛士の殲滅を決意したという[7]。, また、衛士たちは英語の習得やロケット製造方法のような火薬研究などの研鑽に努めていた。, 篠原泰之進(秦林親)の覚書には、『ぐうとないと「こんばんハ』『ぎふみい「私に被下(くだされ)』『せんきゅう「難有(ありがとう)』『あいらぶきゆう「私あなたをすきです』といった内容があり、平助も同様に勉学に励んでいたものとみられる。, 慶応3年8月23日(1867年9月20日)、江川塾・韮山塾(江川家の砲術指南の私塾)にて砲術の免許を取得した。, 慶応3年11月15日[注 12](1867年12月10日)、伊東は平助を伴い、当時坂本龍馬が身を寄せていた近江屋を訪問し、時勢について議論した。, さらに見廻組等が坂本の暗殺を企てているので速やかに土佐藩邸に移るように忠告したが、坂本はただ忠告を謝すばかりで全く相手にはしなかったという[注 13]。, 伊東は「自分が新選組に身を置いていたから信用してもらえず遺憾な次第」と嘆いたという[8]。, 伊東らの忠告もむなしく、程なくして坂本は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまう(近江屋事件)。, 慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅を目的とした大規模な粛清が断行される(油小路事件)。, 油小路で新選組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。